理科教育における直接経験と間接経験は、以下のように定義されます。幼稚舎の理科教育は以下の自然的直接経験を重視した内容を心がけています。

理科教育における直接経験と間接経験 4つのカテゴリー

 理科教育における直接経験は,「自然の事物・現象をメディアを通さず,現時間(リアルタイム)で直接情報を得ること」と定義できます。メディアを通さないということは,自然の事物・現象を直接自らの五感を使って観察することです。そして,現時間ということは,自然の事物・現象に対して双方向性的(インタラクティブ)に情報を交換できるということを示しています.ここで述べる双方向性というのは,観察者が自然に対して情報を得ようとした場合に自然からその跳ね返りがあるという意味です.例えば,岩石を観察する場合,観察者がどんな手触りかを知りたければ触ることができ,どんな臭いかを知りたければ臭いをかぐことができ,主体的に情報を得ることができるという意味です.
 

 直接経験をこのように定義すると,これをさらに大きく2つのカテゴリーに分類することができます.自然の事物・現象を人為的に操作,加工しておらず,それが生じている空間で観察しているのか(これを現空間と定義),あるいはそれが人為的に操作,加工されており,それが生じている空間から移動しており,教室などの中に持ち込まれているのかどうか(これを異空間と定義)ということです。前者を自然的直接経験と呼び,後者を人為的直接経験と呼ぶことにします.

 自然的直接経験は生物,地学のほとんどの野外観察がこれに区分されます.学校内や教室内の観察でも実際の事物・現象が現空間で生じているものならばこのカテゴリーに入ることになります.日なたや日陰の観察や気温の観察などもこれに含まれます.また,機械や器具を通しての観察であっても,自然的直接経験のカテゴリーとして区分できます.例えば,双眼鏡で野鳥を観察する場合や,聴診器で心臓の拍動を聞くことなどの例が挙げられます.すなわち自然的直接経験というのは,自然の事物・現象を現時間,現空間で観察することと定義できます
 それに対して人為的直接経験は,自然の事物・現象を人により,操作・加工して教室内などに持ち込まれたものを観察する場合です.物理・化学のほとんどの実験は人為的に再現されたものであるからすべてこのカテゴリーに入ることになります.

 また,同じものを観察する場合でも,標本を野外で採集してその場で観察する場合は自然的直接経験として区分されますが,教室に持ち込まれた標本を観察する場合は人為的直接経験として区分されます。すなわち,観察は現時間で行いますが,その事物・現象は異空間のものとなります.
もちろん,自然的直接経験と人為的直接経験のカテゴリーの境界領域的なものも存在します.例えば,カエルの解剖は,カエルは教室に生息しておらず教室に人為的に持ち込んだものですから,人為的直接経験のカテゴリーとして区分されます.しかし,児童・生徒にとってはカエル自体が自然の事物です.そして解剖という実習は,情報の双方向性があり,主体的に関わることになります.また校庭の植物観察やビオトープでの観察なども同様です。校庭に植えられた植物やビオトープの自然は人為的に作られたものです。そういう意味では人為的直接経験として区分されます.しかし,子どもにとっては,それらは人為的に作られたという認識を持たないかもしれません.この場合も,子どもは自然の事物・現象から双方向的に情報を受け取っており人為的か自然的かを区別することは困難です。このように考えると自然的直接経験のカテゴリーに含まれるものほど,自然から双方向性的により多くの情報を受け取ることになります。これに人為的な要素が強くなるに従い,双方向性も弱くなります.例えば野外で地層を観察した場合,観察者は自ら地層に対して主体的に関わることができます。自らの興味・関心,疑問に対して,それを解決するため,地層をハンマーでたたき,割れる音,固さ,手応え,臭いなどの情報を得ることができます。しかし,博物館などに展示された標本を観察する場合は,場合によっては見るだけで,触ることもたたくこともできないのです。その場合の情報はある限られたものとなり,双方向性の要素が弱くなることになります。

 それに対して理科教育における間接経験は「自然の事物・現象をメディアを通して観察する」と定義できます.つまり,直接経験の定義は自然の事物・現象をメディアを通さずに観察することなので,それとは相反するものです.メディア(media)とは,情報をやりとりする媒体のことであり,情報のやりとりにかかわる物や人,しくみ,社会基盤の総称のことです

 そして,直接経験と同様に,自然的であるか,人為的であるかを区別することができます.すなわち,自然の事物・現象を忠実に視覚,聴覚などの感覚としてメディアに残した物を観察することを自然的間接経験と定義します.写真や録音された音,スライド,ビデオ映像などがこれに相当します。これらはメディアに記録されたものですが自然のありのままの空間を観察者に情報として提供するものですので,現空間と言えます。

 それに対して,人為的間接経験とは,人為的に作成されてメディアに記録されたものを観察する場合です.簡単な例として,言葉や文字によるものが挙げられます.そして,情報量が増加するにつれて,黒板に描く図や掛け図となり,白黒の図がカラーになり,アニメーション,コンピューターグラフィックス(以下CG)などとなります。それらは人間が自然を真似て作った異空間です。

 人為的間接経験も時代とともに情報量が増し,CGは自然的間接経験と見分けが付かないくらいになってきました。デジタルは加工も容易にでき,インターネットの世界で伝達可能になりました.今や教育のみならず生活の多くの場面でこのCGが使われています。そして,このCGは最も高品質な人為的間接経験とも言えるバーチャルリアリティー技術へと発達したわけです。

理科教育の二つの思潮と本物と偽物

 間接経験の急激な発達のために、今日の理科教育においては直接経験重視の考え方と、ある意味それに相反する間接経験の積極的導入の二つの思潮が混在しているのが現状ではないでしょうか?極端な例としては、ビデオや写真など一切見せないで、実験・観察のみで授業を行おうとする教師と、そのまったく逆の教師が存在する可能性もあるということです。学習指導要領では、直接経験重視、体験学習の重視が謳われている一方で、インターネットの効果的活用、メディア教材の活用を勧めています。現場の教師としては、「本物がいいにきまっている」という発言をする方が多いのですが、本物がいいという科学的な論拠はどこにあるのかと考えるとはっきりとした結論は出せないのではないのでしょうか?例えば、星の日周運動を教える場合、本物を使って指導した方がいいのか、あるいはプラネタリウムを利用して教えた方がいいのかという質問を教師にすると、7割近くの教師がプラネタリウムの方が良いと答えます。本物を観察させながら指導した方が良いと答える教師は2割もいません。おそらく、プラネタリウムを支持した教師は、プラネタリウムは、人為的に星を動かすことができるので、星を動かしながら子供に教えることができるから支持したのだと思います。本物の星を実際に子供に観察させるためには、場所と時間、安全面など多くの面倒なことがあり、プラネタリウムですませてみたいというのが教師の実情でしょう。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?
 私はいくつかの大学生でも講義を持っていますが、その中で学生に星の日周運動について質問すると、実はほとんどの大学生はそのことを覚えていないのです。小学校や中学校で習ったはずと言っても、確かに習ったような気がするとは答えますが、どのように習ったかは覚えていないというのです。もし、彼らが子供の時に、何時間も美しい本物の夜空で星空をじっくりを観察していたら、星というのは本当に動いているという直接経験をしていたら、きっとその経験はいつまでも忘れないのではないでしょうか?プラネタリウムで覚えた知識は確かにその場では身につくかもしれません。しかし、すぐに忘れてしまうような知識を身につけることは理科教育の本質なんでしょうか?
 幼稚舎は高原学校という移動教室で長野県の立科に毎年子どもたちを連れて行きそこで星空観察会をしています。そのときの子どもたちが受ける感動と教育的な効果は、プラネタリウムの何倍も大きいのです。ですから私は、当然のように本物を支持するのです。ある教員研修会で講師を頼まれて、先生方に、プラネタリウムと本物どちらを支持しますか?と聞いてみました。予想通りに8割の教師がプラネタリウムの方に手を挙げました。しかし、どんなに実施が困難であっても、本物の満天の美しい星空を使って子供に教えることができたら、その子供はもしかしたらそれがきっかけで星のことが好きになり一生忘れられない学習を経験するのではないでしょうか?と申しますと、先生方の多くはハッとした表情になります。
 私はプラネタリウムを批判しているわけではありません。理科教師としては、本物と偽物の両方の教育効果を本当にわかった上で、それらを効果的に使い分けることができなければならないと思っているのです。先に述べたように、CGやバーチャルリアリティーなど高品質な間接経験が洪水のように押し寄せてきた現代においてこそ、それらと本物をどのように区別し、融合させていくかはこれからの理科教育の大きな課題となるでしょう。恐ろしいことは本物を使わないで教育された人間が増えつつあること、本物を知らない教師が増えつつあることです。本物を知らない人間は本物を支持しません。そうなると、教育にはCGやバーチャルリアリティーで十分だということになります。学校はすべてバーチャル学校になり、教師も指導力抜群のコンピュータで動くバーチャル教師になってしまうかもしれません(当然我々教師は必要なくなりますね)。そんな未来が来ないことを願っています。(文責 相場)

引用文献  相場博明(2007);理科教育における直接経験と間接経験の類型化と地学教育の果たす役割,地学教育 60巻,p137−148

         相場博明 (2007) ; 直接経験と間接経験のどちらを支持するか.地学教育 60巻,p211−226

 

慶應義塾幼稚舎理科室

直接経験重視の理科

幼稚舎の理科は、1911年に幼稚舎の校舎がまだ三田の丘の上にあった頃、当時の舎長森常樹が、木造二階建ての理科実験室を作ったことが始まりです。この実験室は、日本の小学校では最初の理科室と言われています。福澤諭吉が理科を重視したことから建てられたもので、理科の専任教諭もそのときから雇っていました。それから数えると2011年はちょうど100周年の年となります。幼稚舎の理科教育はそれ以来、常に実験・観察を重視したカリキュラムを実践してきました。東京都の渋谷区と港区にまたがる都心の真ん中にありますが、理科園やビオトープ、サイエンスミュージアムなどを作り、子どもたちに本物の自然を見せるような工夫をしてきました。また、4年生での4泊5日の海浜学校、5年生、6年生の7泊〜9泊の高原学校も大切な理科教育の場となっています。

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Keio yochisha Science Room

幼稚舎の理科の特徴を一言で述べるとすれば、それは「採集理科」と言えるのではないかと思います。採集というと、昆虫採集や植物採集を思い浮かべると思いますが、もっと広い意味に捉えると、理科の採集とは「自然の事物・現象を手元に保存すること」と定義できるのではないでしょうか?となると、昆虫や植物などを採集するのは、直接採集と呼び、写真を撮ったり、録音したり、スケッチしたりするのも同じ採集であり、直接採集と比較して、間接採集と呼ぶことができるのではないでしょうか。本が好きな人はたくさんの本を持っています。音楽が好きな人はたくさんのCDを持っています。では、自然を好きにさせるためにはどうしたらいいでしょうか?それは簡単です。できるだけたくさんの自然を採集させるのです。学校教育の中でも、それは可能です。理科のカリキュラムの中でできるだけたくさんの採集機会を子供に与えてあげることです。幼稚舎の理科は、授業の中でできるだけ採集の機会を多く持たせるような実践を続けています。

異空間・異時間

採集と観察


異空間・現時間

現空間・現時間

幼稚舎の理科教育

観察の定義は、理科教育事典(1991)によると一定の観点によって感覚器官を使用して事象に関する情報を収集することです。その意味では、採集は観察のカテゴリーに入ることになります。しかし、採集には、採集するという明確な目的があり、その目的を達成するための自然環境や条件などの生態学的な内容を自ずと学習しなければならない場合が多くなります。さらに採集したものが自分の手元に残されるという大きなメリットがあります。手元に残ることで、くり返し観察もでき、その比較、同定を試みることで科学の基礎となる分類の方法を学ぶことが可能になってくるのです。例えば、山菜のワラビを採集させたとしましょう。ワラビを採集するためには、ワラビがどのような場所に生えているのか、そして他のシダとの違いをまず学習しなければなりません。そして、ワラビはゼンマイとは違った生え方をするが、前年の枯れた茎を目印にすると見つけやすいとか、さらに採集するときに、独特な臭いとそれが地下茎でつながっていることに気づくかもしれません。採集は、このように考えるとそこには必ず本物の自然が存在し、自然と直接関わり、興味・関心を高めることにつながるものです。採集を伴う観察は、観察の中でもより「深い観察」として位置づけることができるのではないでしょうか。

引用文献 相場博明(2004);採集理科のおすすめ−採集を取り入れた自然体験活動の実践−,理科の教育53巻,p18ー20.

採集理科

現空間・異時間

4年生館山海浜学校における貝殻採集

3年生秩父長瀞の川原における石の採集